これはこれはと世界の起源クールベ忌
Gustave Courbet
-1877年12月31日、亡命先のスイスで死去。享年58歳-
(参考)ギュスターヴ・クールベ -Wikipedia
2013年12月31日火曜日
2013年12月30日月曜日
2013年12月29日日曜日
2013年12月28日土曜日
2013年12月27日金曜日
2013年12月26日木曜日
2013年12月25日水曜日
2013年12月24日火曜日
2013年12月23日月曜日
トマス・ロバート・マルサス忌
何十億の人の口開くマルサス忌
Thomas Robert Malthus
-1834年12月23日、68歳で死去-
(参考)トマス・ロバート・マルサス -Wikipedia
(参考)10万年の世界経済史 -松岡正剛の千夜千冊
Thomas Robert Malthus
-1834年12月23日、68歳で死去-
(参考)トマス・ロバート・マルサス -Wikipedia
(参考)10万年の世界経済史 -松岡正剛の千夜千冊
2013年12月22日日曜日
2013年12月21日土曜日
F・スコット・フィッツジェラルド忌
偉大なる破滅フィッツジェラルド忌
Francis Scott Fitzgerald
-1940年12月21日、心臓麻痺をおこし愛人のアパートで死去。享年44歳-
(参考)F・スコット・フィッツジェラルド -Wikipedia
Francis Scott Fitzgerald
-1940年12月21日、心臓麻痺をおこし愛人のアパートで死去。享年44歳-
(参考)F・スコット・フィッツジェラルド -Wikipedia
2013年12月20日金曜日
2013年12月19日木曜日
2013年12月18日水曜日
2013年12月17日火曜日
2013年12月16日月曜日
2013年12月15日日曜日
2013年12月14日土曜日
2013年12月13日金曜日
2013年12月10日火曜日
2013年12月9日月曜日
2013年12月8日日曜日
2013年12月7日土曜日
2013年12月6日金曜日
2013年12月5日木曜日
2013年12月4日水曜日
2013年12月3日火曜日
2013年12月2日月曜日
2013年12月1日日曜日
2013年11月30日土曜日
オスカー・ワイルド忌
生きている生首オスカー・ワイルド忌
-1900年11月30日、梅毒による脳髄膜炎で死去。享年46歳-
(参考)オスカー・ワイルド -Wikipedia
Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde (16 October 1854 – 30 November 1900)
-1900年11月30日、梅毒による脳髄膜炎で死去。享年46歳-
(参考)オスカー・ワイルド -Wikipedia
Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde (16 October 1854 – 30 November 1900)
2013年11月29日金曜日
ジャコモ・プッチーニ忌
聴衆は寝てはならないプッチーニ忌
-1924年11月29日、65歳で死去-
Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini (Italian: 22 December 1858 – 29 November 1924)
-1924年11月29日、65歳で死去-
Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini (Italian: 22 December 1858 – 29 November 1924)
2013年11月28日木曜日
エンリコ・フェルミ忌
原子力滅びの火なるかフェルミの忌
-1954年11月28日、癌により53歳で死去-
(参考)エンリコ・フェルミ -Wikipedia
Enrico Fermi (Italian: 29 September 1901 – 28 November 1954)
-1954年11月28日、癌により53歳で死去-
(参考)エンリコ・フェルミ -Wikipedia
Enrico Fermi (Italian: 29 September 1901 – 28 November 1954)
2013年11月27日水曜日
2013年11月26日火曜日
2013年11月25日月曜日
2013年11月24日日曜日
イジドール・デュカス(ロートレアモン伯爵)忌
デュカス忌やここで遭ったが手術台
-1870年11月24日、居住先のホテルで謎の死を遂げる。享年24歳-
(参考)ロートレアモン伯爵 -Wikipedia
(参考)解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい
-1870年11月24日、居住先のホテルで謎の死を遂げる。享年24歳-
(参考)ロートレアモン伯爵 -Wikipedia
(参考)解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい
2013年11月23日土曜日
雑感-「ドライブ・マイ・カー」(村上春樹)
小説の粗筋は書かない。
興味のある人は、図書館に行ったついでに文藝春秋12月号を読んでほしい。
読む気があればすぐに読めてしまう短編だ。
ある初老の役者と女子運転手の話。
村上春樹の小説のパターンとして<謎の女性>がよく登場するのだが、この話では男の妻がそうだ。
男は妻の<真意>を知りたがっている。
<なぜそんなことをしたのか>という大きな疑義に男は苦しんでいる。
何か自分自身に致命的な<盲点>があったのではないかとまで思いつめている。
男の内訳話を聞いた女子運転手は、それは彼女の<病>だと言う。
答えになっていない答えだ。
などと思いながら謎の網にかかってしまう読者も少なくないだろう(私もそうだが)
春樹ワールドに馴染んでいる人はすっと引きこまれていく展開だ(長編の予感)
しかし、嫌いな人はまるでアレルギー反応のような拒絶を示す。
どうも、この作家は好かれるか、嫌われるか両極端の反応が目立つ。
嫌いな人は、彼の小説世界が<リアル>でないと感じるようだ。
作り物めいていて、鼻持ちならない、と。
そういう意味では、村上春樹の小説は<リアル>というものに対する一つの踏み絵かもしれない。
(参考)「ドライブ・マイ・カー」 -NAVERまとめ
興味のある人は、図書館に行ったついでに文藝春秋12月号を読んでほしい。
読む気があればすぐに読めてしまう短編だ。
ある初老の役者と女子運転手の話。
村上春樹の小説のパターンとして<謎の女性>がよく登場するのだが、この話では男の妻がそうだ。
男は妻の<真意>を知りたがっている。
<なぜそんなことをしたのか>という大きな疑義に男は苦しんでいる。
何か自分自身に致命的な<盲点>があったのではないかとまで思いつめている。
男の内訳話を聞いた女子運転手は、それは彼女の<病>だと言う。
答えになっていない答えだ。
などと思いながら謎の網にかかってしまう読者も少なくないだろう(私もそうだが)
春樹ワールドに馴染んでいる人はすっと引きこまれていく展開だ(長編の予感)
しかし、嫌いな人はまるでアレルギー反応のような拒絶を示す。
どうも、この作家は好かれるか、嫌われるか両極端の反応が目立つ。
嫌いな人は、彼の小説世界が<リアル>でないと感じるようだ。
作り物めいていて、鼻持ちならない、と。
そういう意味では、村上春樹の小説は<リアル>というものに対する一つの踏み絵かもしれない。
(参考)「ドライブ・マイ・カー」 -NAVERまとめ
2013年11月22日金曜日
2013年11月21日木曜日
2013年11月20日水曜日
2013年11月19日火曜日
雑感-「神の小さな庭で」(日野啓三)
ある晴れた秋の日。
<私>はリハビリのためステッキをつきながら家の近くを歩いている。
正午の日差しの中を介護士とともに近くの公園まで歩いていく。
その公園には三人の男の子が遊んでいた。
ひとりはやっと歩けるようになった年齢で、よろけ転びながら動き回っている。
その姿を<私>はリハビリでヨチヨチと歩いている自分の姿と重ねながら見ている。
その三人の子どもたちは<私>に関心を持ちはじめ、<私>をポカンと眺めている。
気がつくとその三人が<私>のすぐ前に並んで立っていた。
そのひとりは小さな片手に握っていた何かを<私>に差し出した。
そして、不明瞭な声でしきりに何か言っている。
<私>がそれを受け取ってみると、それはドングリであった。
・・・・意味や目的はあいまいでも、何か温かいものがふたりの間に流れ伝わったことにふたりとも満足したことを感じ合ったとき、私は穏やかに深く感動し、「天国はこのような者の国である」という福音書の中の言葉を、しっかり過不足なく理解したと信じた。・・・・
(p224)
人間は「説明も強要も一切なしに、共感し納得し合うことが時に可能」であるということを、<私>は深く感じた。
この作品は、『落葉 神の小さな庭で』という短篇集の最後の小品だが、まさにこの作品群のまとめともなっている。
「大人」が「子ども」によって許されるというテーマは「そして父になる」でも感じたことだが、気になるのはその「子ども」の世界を大人たちが歪め始めているということだ。
虐待もそうだが、それ以上にわれわれの世界を<汚染>している資本主義の害毒が子どもの世界まで及び始めているのが心配だ。
この世界から「子ども」が消えてしまえば、もう我々の世界を浄化してくれる存在はなくなるのだから。
<私>はリハビリのためステッキをつきながら家の近くを歩いている。
正午の日差しの中を介護士とともに近くの公園まで歩いていく。
その公園には三人の男の子が遊んでいた。
ひとりはやっと歩けるようになった年齢で、よろけ転びながら動き回っている。
その姿を<私>はリハビリでヨチヨチと歩いている自分の姿と重ねながら見ている。
その三人の子どもたちは<私>に関心を持ちはじめ、<私>をポカンと眺めている。
気がつくとその三人が<私>のすぐ前に並んで立っていた。
そのひとりは小さな片手に握っていた何かを<私>に差し出した。
そして、不明瞭な声でしきりに何か言っている。
<私>がそれを受け取ってみると、それはドングリであった。
・・・・意味や目的はあいまいでも、何か温かいものがふたりの間に流れ伝わったことにふたりとも満足したことを感じ合ったとき、私は穏やかに深く感動し、「天国はこのような者の国である」という福音書の中の言葉を、しっかり過不足なく理解したと信じた。・・・・
(p224)
人間は「説明も強要も一切なしに、共感し納得し合うことが時に可能」であるということを、<私>は深く感じた。
この作品は、『落葉 神の小さな庭で』という短篇集の最後の小品だが、まさにこの作品群のまとめともなっている。
「大人」が「子ども」によって許されるというテーマは「そして父になる」でも感じたことだが、気になるのはその「子ども」の世界を大人たちが歪め始めているということだ。
虐待もそうだが、それ以上にわれわれの世界を<汚染>している資本主義の害毒が子どもの世界まで及び始めているのが心配だ。
この世界から「子ども」が消えてしまえば、もう我々の世界を浄化してくれる存在はなくなるのだから。
フランツ・シューベルト忌
冬の旅ひとり泣くシューベルトの忌
-1828年11月19日、31歳で死去。死因は梅毒治療のための水銀中毒など諸説-
(参考)「風立ちぬ」とシューベルト『冬の旅』
(参考)フランツ・シューベルト Wikipedia
-1828年11月19日、31歳で死去。死因は梅毒治療のための水銀中毒など諸説-
(参考)「風立ちぬ」とシューベルト『冬の旅』
(参考)フランツ・シューベルト Wikipedia
2013年11月18日月曜日
2013年11月17日日曜日
雑感-「ボルヘスと『現在』」(平野啓一郎)
ボルヘスは最後は全盲のような状態だったらしい。
そのため彼は世界を「描写」ではなく「暗示」という手法で示そうとしたという。
私も目があまりよくないので思い当たるフシがある。
きっと目がいい人たちが見ている世界と悪い人が見ている世界はかなり違っているのだろう。
たとえば、私は道を歩いている誰かを認識するのに、その顔ではなく、むしろその姿の特徴によって認知することが多い。
ある程度近づかないとその人の顔がわからないから。
ボルヘスは、視力を失ってその代わりに音に敏感になり、アングロ・サクソン語を非常によく理解できるようになったという。
ある言語は<視覚的>であり、ある言語は<聴覚的>ということがあるのだろうか。
もしそうであるならば、英語を学ぶ人は目だけではなく、むしろ耳を活用して勉強した方がいいことになる。
ボルヘスには、死ななくなった人たちを描いた「不死の人」という作品がある。
彼は「死(もしくはその暗示でさえも)人間を尊くも悲愴な存在にしている。人間はその幻影としての条件を通して行動する。人間がなしとげるすべての行為は最後の行為であるかもしれない」と述べている。
老いや病気のために死を目前に見据える人には、実感できる感覚であろう。
たいていの人は、強力な<忘却力>のおかげでそれを忘れて生きているのだが・・・。
しかし、人がひとたび<不死>というものを手に入れたら、その一回性は消えてしまう。
つまり、人が持つ<尊厳も悲愴>も消えてしまうということだ。
量的な意味では、人はすでに<不死>を手に入れたとも言える。
縄文時代の平均寿命が15歳ぐらいで、江戸時代に入ってやっと20~30歳ぐらいになったそうだ。
現在の寿命からすれば、人はあっという間に生まれあっという間に死んでいったことになる。(あくまでも<平均化された人>であり、出生後すぐに死ぬ人が多かったということだろうが)
縄文時代の人から見れば我々は不死の人のように見えたであろう。
たとえば、今500年生きる人を見たらそれは我々にとってかぎりなく不死にみえるように。
早くに死んでいく人間と長く生きて死んでいく人間の本質的な差はなんだろうか?
もちろん、長く生きることによって<経験値>は高まるだろうが、その長さに見合って死と向きあう時間も増えるはずだ。それが人の<尊厳や悲愴>を増大させるかどうかはわからない。
人間の物理的な身体には<耐用年数>があるが、未来には機械や別の臓器への<移住>によって無限に命をつなぐこともできるかもしれない。
しかし、それが<不死>といえるかどうかは解釈の分かれるところであろう。
そこには、<自分>とは何かという問題があるからだ。(今の常識では<脳>本体ということなんだろうが・・・)
各人の脳ではなく、遺伝子レベルでみれば、我々はすでに不死に近い状態にある。
しかし、自分たちを<不死>だと考える人はあまりいないだろう。
<家系>や<民族>などを<自己>と同一視する人にとってはある種の<不死>が成立していたかもしれない。
それから「八岐の人」という作品について。
小説を書いている男の話だが、その小説は通常のそれのように<あれか、これか>という行動の選択ではなく、<あれも、これも>というあらゆる可能性に枝分かれしていく物語だという。
もちろん現実的にはありえない話だが、記号的には可能であるところが面白い。
いわゆる多世界解釈だが、この小説と同様、解釈は可能だが、それはあくまでも可能性として存在する世界にすぎない。
現実、つまり現象世界はひとつ(ないし、多少のヴァリエーションの実現性の総体)だと思う。
個人の人生や人類総体の歴史がそうであるように、あらゆる数学的可能性の中である特定のパターンだけが選ばれているのはなぜかという問題がそこにはある。
われわれは、なぜ特定の物語(あるプロットとそのヴァリエーション)しか生きられないのか?
ポーは「物語は最後の文章のために、詩は最後の一行のために書かれるべきだ」と書いているが、まさに我々も最後(最期)の瞬間のために自分の物語を書き進めているだけかもしれない。
(参考)日本人は、いつ頃から"長生き"になったのか?
そのため彼は世界を「描写」ではなく「暗示」という手法で示そうとしたという。
私も目があまりよくないので思い当たるフシがある。
きっと目がいい人たちが見ている世界と悪い人が見ている世界はかなり違っているのだろう。
たとえば、私は道を歩いている誰かを認識するのに、その顔ではなく、むしろその姿の特徴によって認知することが多い。
ある程度近づかないとその人の顔がわからないから。
ボルヘスは、視力を失ってその代わりに音に敏感になり、アングロ・サクソン語を非常によく理解できるようになったという。
ある言語は<視覚的>であり、ある言語は<聴覚的>ということがあるのだろうか。
もしそうであるならば、英語を学ぶ人は目だけではなく、むしろ耳を活用して勉強した方がいいことになる。
ボルヘスには、死ななくなった人たちを描いた「不死の人」という作品がある。
彼は「死(もしくはその暗示でさえも)人間を尊くも悲愴な存在にしている。人間はその幻影としての条件を通して行動する。人間がなしとげるすべての行為は最後の行為であるかもしれない」と述べている。
老いや病気のために死を目前に見据える人には、実感できる感覚であろう。
たいていの人は、強力な<忘却力>のおかげでそれを忘れて生きているのだが・・・。
しかし、人がひとたび<不死>というものを手に入れたら、その一回性は消えてしまう。
つまり、人が持つ<尊厳も悲愴>も消えてしまうということだ。
量的な意味では、人はすでに<不死>を手に入れたとも言える。
縄文時代の平均寿命が15歳ぐらいで、江戸時代に入ってやっと20~30歳ぐらいになったそうだ。
現在の寿命からすれば、人はあっという間に生まれあっという間に死んでいったことになる。(あくまでも<平均化された人>であり、出生後すぐに死ぬ人が多かったということだろうが)
縄文時代の人から見れば我々は不死の人のように見えたであろう。
たとえば、今500年生きる人を見たらそれは我々にとってかぎりなく不死にみえるように。
早くに死んでいく人間と長く生きて死んでいく人間の本質的な差はなんだろうか?
もちろん、長く生きることによって<経験値>は高まるだろうが、その長さに見合って死と向きあう時間も増えるはずだ。それが人の<尊厳や悲愴>を増大させるかどうかはわからない。
人間の物理的な身体には<耐用年数>があるが、未来には機械や別の臓器への<移住>によって無限に命をつなぐこともできるかもしれない。
しかし、それが<不死>といえるかどうかは解釈の分かれるところであろう。
そこには、<自分>とは何かという問題があるからだ。(今の常識では<脳>本体ということなんだろうが・・・)
各人の脳ではなく、遺伝子レベルでみれば、我々はすでに不死に近い状態にある。
しかし、自分たちを<不死>だと考える人はあまりいないだろう。
<家系>や<民族>などを<自己>と同一視する人にとってはある種の<不死>が成立していたかもしれない。
それから「八岐の人」という作品について。
小説を書いている男の話だが、その小説は通常のそれのように<あれか、これか>という行動の選択ではなく、<あれも、これも>というあらゆる可能性に枝分かれしていく物語だという。
もちろん現実的にはありえない話だが、記号的には可能であるところが面白い。
いわゆる多世界解釈だが、この小説と同様、解釈は可能だが、それはあくまでも可能性として存在する世界にすぎない。
現実、つまり現象世界はひとつ(ないし、多少のヴァリエーションの実現性の総体)だと思う。
個人の人生や人類総体の歴史がそうであるように、あらゆる数学的可能性の中である特定のパターンだけが選ばれているのはなぜかという問題がそこにはある。
われわれは、なぜ特定の物語(あるプロットとそのヴァリエーション)しか生きられないのか?
ポーは「物語は最後の文章のために、詩は最後の一行のために書かれるべきだ」と書いているが、まさに我々も最後(最期)の瞬間のために自分の物語を書き進めているだけかもしれない。
(参考)日本人は、いつ頃から"長生き"になったのか?
2013年11月16日土曜日
雑感-『迷宮庭園』(日野啓三)
慶応病院の敷地に接している新宿御苑の整形庭園のことが書かれている。
何度も歩いた場所だが、それが迷宮庭園の一部をなしていることは知らなかった。
(あるいはボルヘスのように作者の空想の産物かも知れないが・・・)
腎臓癌を告知された作者は、恐怖のために眠れぬ夜を幾晩も重ねて、いよいよ明日手術というその夜に次のように実感する。「迷宮とはどこから入りこんでも中心へと至りつくその中心への情熱の産物であり、そのように中心に至りつこうとする情熱の核心には、中心でこそこの世のものならぬ何かが起こりうるかもしれない、という魂の、ほとんど神話的な希求がひそむ」ということを・・・。
・・・・<古いおまえはこれから象徴的に死ぬのだ、そして神話的に再生することになっている。今回の手術はその死と再生の秘義、通過儀礼(イニシエーション)に他ならない。いままでのおまえは本当に生きてはいなかったのだ。この儀式を耐え抜くことによって、新しい永遠の生命を得られるかもしれない>ということがわかった。証明も説明もなしに、すっとすっきりと。・・・・
(p73)
その<啓示>を受けて作者の恐怖と不安は消え、その気づきが手術に間に合ったことに深く感謝する。
そして十年が経ち、作者はまた同じ病院に戻ってきて新宿御苑の庭園を眺めている。ひそかに心を通わせている女性と、その<中心の場所>に立つ日のことを思い描きながら・・・。
言うまでもないが、作者というのは、もちろん、かぎりなく作者に近い、小説の主人公のことである。
『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より
何度も歩いた場所だが、それが迷宮庭園の一部をなしていることは知らなかった。
(あるいはボルヘスのように作者の空想の産物かも知れないが・・・)
腎臓癌を告知された作者は、恐怖のために眠れぬ夜を幾晩も重ねて、いよいよ明日手術というその夜に次のように実感する。「迷宮とはどこから入りこんでも中心へと至りつくその中心への情熱の産物であり、そのように中心に至りつこうとする情熱の核心には、中心でこそこの世のものならぬ何かが起こりうるかもしれない、という魂の、ほとんど神話的な希求がひそむ」ということを・・・。
・・・・<古いおまえはこれから象徴的に死ぬのだ、そして神話的に再生することになっている。今回の手術はその死と再生の秘義、通過儀礼(イニシエーション)に他ならない。いままでのおまえは本当に生きてはいなかったのだ。この儀式を耐え抜くことによって、新しい永遠の生命を得られるかもしれない>ということがわかった。証明も説明もなしに、すっとすっきりと。・・・・
(p73)
その<啓示>を受けて作者の恐怖と不安は消え、その気づきが手術に間に合ったことに深く感謝する。
そして十年が経ち、作者はまた同じ病院に戻ってきて新宿御苑の庭園を眺めている。ひそかに心を通わせている女性と、その<中心の場所>に立つ日のことを思い描きながら・・・。
言うまでもないが、作者というのは、もちろん、かぎりなく作者に近い、小説の主人公のことである。
『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より
2013年11月15日金曜日
2013年11月14日木曜日
雑感-『薄青く震える秋の光の中で』(日野啓三)
腎臓癌、鼻孔癌、そしてクモ膜下出血と、命を脅かす病たちをからくもやり過ごしたあとの秋。
作者は自分と世界の正体に目を凝らしている。
・・・・ただ古来多くの神話と伝説が伝え残しているように、生身の人間が今までどおりの状態で、世界の認識が深まり豊かになる、ということはありえない。もし世界の真相が恐るべきものであるなら、認識者自身、多少とも怪物的にならねばならないだろう。謎が世界の核であるならば、彼自身謎めいた存在に近づかない限り、その認識も表面を撫でるだけに終始するだろう。・・・・
(p31)
あるドキュメンタリー写真家の女友達が作者の病床を訪ねてくる。身体を動かすこともかなわない作者だが、その<出会い>に運命的なものを感じる。
たまたま病院の窓の外に見つけた落葉高木(えごのき)が揺れている方角に彼女が暮らしていることを思い、作者の「体の深みの暖かみはいっそう広がってやさしく震え始める」
・・・・そう、この世界のすぐ上、すぐ奥、すぐの深みには古来、聖霊が統べる領域があって、われわれの魂が純粋に張りつめ、視線が力を秘めていれば、聖霊の力をじかに感じ取ることもできるはずなのだ。・・・・
(p47)
なにやら中沢新一の聖霊論を彷彿とさせる記述ではあるが、彼は知識ではなく、実感としてそれを感じているのだろう。
そこに女性的なものがかかわっていることがその証だと思う。
『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より
作者は自分と世界の正体に目を凝らしている。
・・・・ただ古来多くの神話と伝説が伝え残しているように、生身の人間が今までどおりの状態で、世界の認識が深まり豊かになる、ということはありえない。もし世界の真相が恐るべきものであるなら、認識者自身、多少とも怪物的にならねばならないだろう。謎が世界の核であるならば、彼自身謎めいた存在に近づかない限り、その認識も表面を撫でるだけに終始するだろう。・・・・
(p31)
あるドキュメンタリー写真家の女友達が作者の病床を訪ねてくる。身体を動かすこともかなわない作者だが、その<出会い>に運命的なものを感じる。
たまたま病院の窓の外に見つけた落葉高木(えごのき)が揺れている方角に彼女が暮らしていることを思い、作者の「体の深みの暖かみはいっそう広がってやさしく震え始める」
・・・・そう、この世界のすぐ上、すぐ奥、すぐの深みには古来、聖霊が統べる領域があって、われわれの魂が純粋に張りつめ、視線が力を秘めていれば、聖霊の力をじかに感じ取ることもできるはずなのだ。・・・・
(p47)
なにやら中沢新一の聖霊論を彷彿とさせる記述ではあるが、彼は知識ではなく、実感としてそれを感じているのだろう。
そこに女性的なものがかかわっていることがその証だと思う。
『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より
2013年11月13日水曜日
雑感-「『時間』の克服」(平野啓一郎)
ミルチャ・エリアーデについて。
彼は生涯3つの分野で著作活動を行なっている。
宗教史・比較宗教学、日記・自伝、そして小説である。
宗教関係の本は何冊か読んでいるが小説は未読である。
おそらく、小説にこそ彼の同時代に対するメッセージが強く打ちだされているのだろう。
・・・・エリアーデは、あらゆる実存的不安は、時間の問題に、取り分け、その西欧近代的な(遡れば、ユダヤ・キリスト教的伝統であるが)直線的かつ不可逆的な性格に由来していると考えていた。
我々の生きる日常とは、聖なるものの偽装して現れた姿に過ぎず、その聖なるものの「しるし」を発見し、絶え間なく変化を繰り返す線形的な時間から脱出して、永遠の時間を生きることこそ必要であるというのが、彼の根本的な主張である。・・・・
(p115)
近代的な直線的時間でもなく、古代的円環的な時間でもない、新たな時間論(あるいは解釈)が必要とされている。
というのは、人類文明はまさにその線形的な時間のレールの上を、まるでブレーキが効かない列車のように爆走(暴走)しているからである。
彼は生涯3つの分野で著作活動を行なっている。
宗教史・比較宗教学、日記・自伝、そして小説である。
宗教関係の本は何冊か読んでいるが小説は未読である。
おそらく、小説にこそ彼の同時代に対するメッセージが強く打ちだされているのだろう。
・・・・エリアーデは、あらゆる実存的不安は、時間の問題に、取り分け、その西欧近代的な(遡れば、ユダヤ・キリスト教的伝統であるが)直線的かつ不可逆的な性格に由来していると考えていた。
我々の生きる日常とは、聖なるものの偽装して現れた姿に過ぎず、その聖なるものの「しるし」を発見し、絶え間なく変化を繰り返す線形的な時間から脱出して、永遠の時間を生きることこそ必要であるというのが、彼の根本的な主張である。・・・・
(p115)
近代的な直線的時間でもなく、古代的円環的な時間でもない、新たな時間論(あるいは解釈)が必要とされている。
というのは、人類文明はまさにその線形的な時間のレールの上を、まるでブレーキが効かない列車のように爆走(暴走)しているからである。
雑感-「風が哭く」(日野啓三)
作者が慶応病院脳外科に入院したときの実録風短編。
慶応病院は、外からは見たことがあるが中に入ったことはない。
その新棟に脳外科病棟があり、作者はその十階の病室で激しい春の風の音を聞く。
それは、「嘆くようにも、怨むようにも、号泣するようにも、むせび泣くようにも、惻々と訴えるようにも、体を震わせて難詰するようにも、呪うようにも聞こえる」(p19)という。
社会から隔離され、社会性を剥奪されて、裸の肉体として<死>の前に引き出されれば、大抵の人が作中の老女のように思うだろう。「どうして自分がこんな目に」と。
怒りにせよ、哀しみにせよ、諦めにせよ、その感情は個的なものを超えて普遍的なものに限りなく近いだろう。
<死>というものを目前にしたとき、人はおそらく人類普遍の感情に触れるはずだ。死んでいった祖先たちが感じ、また人類世界が続く限り子孫たちが感じるであろう根源的感情・・・。
そのとき人ははじめて他者の生(なま)の感情に触れることができるともいえる。
作者はその啾啾たる風の音を聞きながら次のように思う。
・・・・人間は、実際に地上の岩山や洞窟や廃墟の中で風の哭く声を聞いて、自分たちの魂の奥にうごめく悲しみと絶望を意識したのであり、そのように意識したとき、「魂」とか「心」という、”超現実の現実”を初めて認識し実感したのではないだろうか。
つまり私たち人間は変奏する風のうなりから生まれたのだ。少なくとも、その自意識の、比類ない陰影は・・・・
(p25)
『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より
脳の跡がらんどうだよ春疾風
慶応病院は、外からは見たことがあるが中に入ったことはない。
その新棟に脳外科病棟があり、作者はその十階の病室で激しい春の風の音を聞く。
それは、「嘆くようにも、怨むようにも、号泣するようにも、むせび泣くようにも、惻々と訴えるようにも、体を震わせて難詰するようにも、呪うようにも聞こえる」(p19)という。
社会から隔離され、社会性を剥奪されて、裸の肉体として<死>の前に引き出されれば、大抵の人が作中の老女のように思うだろう。「どうして自分がこんな目に」と。
怒りにせよ、哀しみにせよ、諦めにせよ、その感情は個的なものを超えて普遍的なものに限りなく近いだろう。
<死>というものを目前にしたとき、人はおそらく人類普遍の感情に触れるはずだ。死んでいった祖先たちが感じ、また人類世界が続く限り子孫たちが感じるであろう根源的感情・・・。
そのとき人ははじめて他者の生(なま)の感情に触れることができるともいえる。
作者はその啾啾たる風の音を聞きながら次のように思う。
・・・・人間は、実際に地上の岩山や洞窟や廃墟の中で風の哭く声を聞いて、自分たちの魂の奥にうごめく悲しみと絶望を意識したのであり、そのように意識したとき、「魂」とか「心」という、”超現実の現実”を初めて認識し実感したのではないだろうか。
つまり私たち人間は変奏する風のうなりから生まれたのだ。少なくとも、その自意識の、比類ない陰影は・・・・
(p25)
『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より
脳の跡がらんどうだよ春疾風
2013年11月12日火曜日
2013年11月11日月曜日
雑感-「でっち上げられた衰耗」(平野啓一郎)
ランボーの『地獄の季節』の一節。
引用は『モノローグ』(平野啓一郎)から。
「行為は生活ではない、一種の力を、言わば、ある衰耗をでっち上げる方法なのだ。」
(p.132)
この言葉は、臨終の床でつぶやかれた言葉ではなく、ランボーが詩を捨て、アフリカに赴く前に書かれたことに平野は注目している。つまり、まるでその言葉を予言として実行するかのようにランボーが「衰耗をでっち上げ」て死んだことに。
ヴェルレーヌとの放蕩生活の中でいやというほど「行為」の本質を知った彼なのに、どうして衰耗の一生を送ったのか。
おそらく、ひとたび行為の本質に気づいた者はそのようにしか生きられないのだろう。
・・・二元論の矛盾の狭間で苦しみ喘いだ後、彼ら(ロマン主義者達)が遂には筆を捨て、行動へと身を投じ、破滅しなければならなかったかということ。その宿命の克服は、今なお古びない大きな問題であり、私にとっては、恐らくは生涯関わり続けるべき文学的主題となるであろう。・・・
(p.133)
初出は、2003年1月5日「讀賣新聞」朝刊
マルセーユの冬日ランボー息絶える
(参考)アルチュール・ランボー忌
引用は『モノローグ』(平野啓一郎)から。
「行為は生活ではない、一種の力を、言わば、ある衰耗をでっち上げる方法なのだ。」
(p.132)
この言葉は、臨終の床でつぶやかれた言葉ではなく、ランボーが詩を捨て、アフリカに赴く前に書かれたことに平野は注目している。つまり、まるでその言葉を予言として実行するかのようにランボーが「衰耗をでっち上げ」て死んだことに。
ヴェルレーヌとの放蕩生活の中でいやというほど「行為」の本質を知った彼なのに、どうして衰耗の一生を送ったのか。
おそらく、ひとたび行為の本質に気づいた者はそのようにしか生きられないのだろう。
・・・二元論の矛盾の狭間で苦しみ喘いだ後、彼ら(ロマン主義者達)が遂には筆を捨て、行動へと身を投じ、破滅しなければならなかったかということ。その宿命の克服は、今なお古びない大きな問題であり、私にとっては、恐らくは生涯関わり続けるべき文学的主題となるであろう。・・・
(p.133)
初出は、2003年1月5日「讀賣新聞」朝刊
マルセーユの冬日ランボー息絶える
(参考)アルチュール・ランボー忌
雑感-「落葉」(日野啓三)
作者は2000年元旦に慶応大学病院の脳神経外科に入院。
脳の中心部の動脈瘤が破れて、クモ膜下出血を起こしたのだ。
作者の脳を開頭した担当の医師が術後こう言ったという。
「頭を開いたら、落葉がつまっていたよ。とてもいっぱい、どうしてあんなに落葉だったのだろう」
・・・私の切られた頭蓋骨の切り口からこぼれ落ちて床にたまった落葉の小山さえこの医師なら本当に見たかもしれない。それは私の運命に対する比類ない詩的洞察であり、私は頭を開いて(心ではなく)、正体をさらしたわけだ。・・・
(p11-12)
手術後退院して自宅静養中に書かれた短編の一つ。
初出は2000年すばる12月号。
作者は2002年10月14日に死去している。
落葉降る下に最後の人歩む
脳の中心部の動脈瘤が破れて、クモ膜下出血を起こしたのだ。
作者の脳を開頭した担当の医師が術後こう言ったという。
「頭を開いたら、落葉がつまっていたよ。とてもいっぱい、どうしてあんなに落葉だったのだろう」
・・・私の切られた頭蓋骨の切り口からこぼれ落ちて床にたまった落葉の小山さえこの医師なら本当に見たかもしれない。それは私の運命に対する比類ない詩的洞察であり、私は頭を開いて(心ではなく)、正体をさらしたわけだ。・・・
(p11-12)
手術後退院して自宅静養中に書かれた短編の一つ。
初出は2000年すばる12月号。
作者は2002年10月14日に死去している。
落葉降る下に最後の人歩む
2013年11月10日日曜日
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2013年10月6日日曜日
雑感-「エリジウム」
65歳の未来学者レイ・カーツワイルは、一日に150もの錠剤を飲みながら、2045年まで生き延びようとしているという。
2045年には何が起こるのか?
彼の予測では、2029年にはコンピュータの能力が人間を超え、2045年には全人類の知能を合わせたものよりも進化するという。
それを、彼はシンギュラリティ(特異点)と呼んでいる。
そして、2045年にはすべての病気が治療可能となり、人間は機械と常に結合され、人類は<不老不死>となるという。
映画「エリジウム」は、その2045年よりもさらに先の2154年の世界を描いている。
この未来世界では、カーツワイルが予言したことはすべて実現している。一つの例外、<全人類>ということを除いて。
シンギュラリティの恩恵にあずかれるのは、ほんのひとにぎりの超富裕層だけで、彼らは、エリジウムと呼ばれる宇宙コロニーで老いや病から解放されて、優雅な生活を楽しんでいる。それに対して、大多数の人類はスラムと化した地上で貧困と搾取に苦しみながら、エリジウムに行くことをむなしく夢見ているという設定だ。
これは、未来社会というよりも現代社会の寓意というべきかもしれない。とすれば、エリジウムは遠い未来のことではなく、現代社会にすでに存在している。
以下、ネタバレになるかもしれないが、最後にはそのテクノロジーの理想郷もレジスタンスの蜂起によって崩壊し、エリジウムのテクノロジーは全人類へ<解放>される。それは血なまぐさい革命ではなく、テクノロジーによってリブートされるのだが・・・。
この映画は、ニール・ブロムカンプ監督による現代社会への痛烈なメッセージなのだ。
2045年には何が起こるのか?
彼の予測では、2029年にはコンピュータの能力が人間を超え、2045年には全人類の知能を合わせたものよりも進化するという。
それを、彼はシンギュラリティ(特異点)と呼んでいる。
そして、2045年にはすべての病気が治療可能となり、人間は機械と常に結合され、人類は<不老不死>となるという。
映画「エリジウム」は、その2045年よりもさらに先の2154年の世界を描いている。
この未来世界では、カーツワイルが予言したことはすべて実現している。一つの例外、<全人類>ということを除いて。
シンギュラリティの恩恵にあずかれるのは、ほんのひとにぎりの超富裕層だけで、彼らは、エリジウムと呼ばれる宇宙コロニーで老いや病から解放されて、優雅な生活を楽しんでいる。それに対して、大多数の人類はスラムと化した地上で貧困と搾取に苦しみながら、エリジウムに行くことをむなしく夢見ているという設定だ。
これは、未来社会というよりも現代社会の寓意というべきかもしれない。とすれば、エリジウムは遠い未来のことではなく、現代社会にすでに存在している。
以下、ネタバレになるかもしれないが、最後にはそのテクノロジーの理想郷もレジスタンスの蜂起によって崩壊し、エリジウムのテクノロジーは全人類へ<解放>される。それは血なまぐさい革命ではなく、テクノロジーによってリブートされるのだが・・・。
この映画は、ニール・ブロムカンプ監督による現代社会への痛烈なメッセージなのだ。
2013年10月3日木曜日
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2013年9月30日月曜日
2013年9月29日日曜日
雑感-「許されざる者」
「そして父になる」のことを考えているときに、ふと「許されざる者」のことを思った。
たまたま一週間前に観た映画だ。
はっきり言って「許されざる者」は後味の悪い映画だった。
パンフも買う気にもなれなかった。なぜだろうかとしばらく考えたが、たぶんテーマの重さのせいだろうと思って、それ以上考えなかった。
たとえば、アイヌに対する差別。原作のハリウッド版にはないもので、李相日監督の思い入れがそこにあったのだろうと推察される。
町の警察署長の大石一蔵(佐藤浩市)は「生き残ったものが正しい」という、わかりやすい実践哲学を掲げて、町の治安を暴力で守っている。秩序の原初形態。
そこに人斬り十兵衛こと釜田十兵衛(渡辺謙)たちがその対抗勢力として現れる。愛や友情のために闘う(と見なされている)十兵衛だが、実のところそれも一蔵の「力の正義」と本質的には変わらない。守るべきは、かたや町の治安であり、かたや友情や家族(子どもたち)である。
そこには<悪を倒すには武器や闘争が必要である>という現実原理しかないように思う。<悪>とはお互いがお互いに勝手につけた呼称だ。
つまり、この映画の世界には救いがないのである。そこに感じられるのは徹底的な暴力の感触だけである。とりわけ一蔵は、相手を殴ったり、蹴ったり、撃ったりしながら、私たちを挑発する。お前たちの代わりに俺がこうやって暴力をふるっているんだぞと。
この映画にも子どもがいる。十兵衛の子どもたちだが、どう見ても子どもではない。それは、大人が見た子どものイメージがあるだけで、そこに子どもは存在しない。
それがこの「許されざる者」の世界である。
したがって、この世界では罪深い大人たちを許してくれる者は誰もいない。つまり、この映画の大人たちすべてが「許されざる者」である。
たまたま一週間前に観た映画だ。
はっきり言って「許されざる者」は後味の悪い映画だった。
パンフも買う気にもなれなかった。なぜだろうかとしばらく考えたが、たぶんテーマの重さのせいだろうと思って、それ以上考えなかった。
たとえば、アイヌに対する差別。原作のハリウッド版にはないもので、李相日監督の思い入れがそこにあったのだろうと推察される。
町の警察署長の大石一蔵(佐藤浩市)は「生き残ったものが正しい」という、わかりやすい実践哲学を掲げて、町の治安を暴力で守っている。秩序の原初形態。
そこに人斬り十兵衛こと釜田十兵衛(渡辺謙)たちがその対抗勢力として現れる。愛や友情のために闘う(と見なされている)十兵衛だが、実のところそれも一蔵の「力の正義」と本質的には変わらない。守るべきは、かたや町の治安であり、かたや友情や家族(子どもたち)である。
そこには<悪を倒すには武器や闘争が必要である>という現実原理しかないように思う。<悪>とはお互いがお互いに勝手につけた呼称だ。
つまり、この映画の世界には救いがないのである。そこに感じられるのは徹底的な暴力の感触だけである。とりわけ一蔵は、相手を殴ったり、蹴ったり、撃ったりしながら、私たちを挑発する。お前たちの代わりに俺がこうやって暴力をふるっているんだぞと。
この映画にも子どもがいる。十兵衛の子どもたちだが、どう見ても子どもではない。それは、大人が見た子どものイメージがあるだけで、そこに子どもは存在しない。
それがこの「許されざる者」の世界である。
したがって、この世界では罪深い大人たちを許してくれる者は誰もいない。つまり、この映画の大人たちすべてが「許されざる者」である。
2013年9月28日土曜日
雑感-「そして父になる」
最近、映画に行ってもパンフを買わなくなった。
はっきり言って読む価値のあるパンフがほとんどないからである。まるで消化試合のようなパンフばかりだったので、ある時からまったく買うのをやめてしまった。
私にとってパンフを読む愉しみは、映画を読み解く愉しみである。たぶん映像という表現とは別に文字による咀嚼がないと消化不良のような後味の悪さを感じるのだろう。ただし、それはいい映画に限られる。
逆に言うと、活字でも読みたいと思わない映画は自分にとってそれほどいい映画ではなかったということになる。
今回観た「そして父になる」はいい映画だった。迷わずパンフを買い求め、そしてじっくりと読んだ。ありがたいことに、映画の内容に見合ういいパンフだった。いい映画を作る人たちはパンフにも手抜きをしないということだろうか。
「そして父になる」の英訳が「Like Father, Like Son」というのが気になった。辞書によると「蛙の子は蛙」のような格言らしいが、大体否定的なニュアンスで使われているという。*
もしそうなら、この英訳は適訳だろうか。いずれにしても原題の思いが伝わらないのが残念だ。
息子を取り違えられた二家族が<息子と過ごした時間>ではなく<血>を選択するまでの苦悩や苦渋の日々が大胆にカットされて、淡々と、ある意味静かに物語が進行していく・・・。
弁護士が二家族に断言する。「100%の人が交換を選びますよ」と。観る者は、はたして自分ならどうするだろうか、と考える。もちろん、二人とも引き取るという選択肢はない。6歳という年齢も微妙な年齢だ。100%という数字の真偽はともかく、大多数の人が<血>を選ぶのであろう。
今は揺れている子どもたちの気持ちも、大人たちがしっかりしていて、ぶれなければやがて収まっていくものだという、大人たちの確信が、そこにはある。
しかし、子どもの一言でそれは崩れてしまう・・・。そして、大人が、大人の男が自分の子どもに自分の弱さをさらけ出し、許しを乞う。最後に、許し、受容するのは子どもである。
告解と許し。
子どもを持つとか、子どもを作るとか、私たちは大人側から子どもを取り扱おうとするのに慣れきっているが、実はそうではないということではないか。
子どもという存在があって私たちが<父>になれ、<母>になれ、<大人>になれるということがほんとうに理解できたら、この世界はもっと平和なものに<なれる>。
はっきり言って読む価値のあるパンフがほとんどないからである。まるで消化試合のようなパンフばかりだったので、ある時からまったく買うのをやめてしまった。
私にとってパンフを読む愉しみは、映画を読み解く愉しみである。たぶん映像という表現とは別に文字による咀嚼がないと消化不良のような後味の悪さを感じるのだろう。ただし、それはいい映画に限られる。
逆に言うと、活字でも読みたいと思わない映画は自分にとってそれほどいい映画ではなかったということになる。
今回観た「そして父になる」はいい映画だった。迷わずパンフを買い求め、そしてじっくりと読んだ。ありがたいことに、映画の内容に見合ういいパンフだった。いい映画を作る人たちはパンフにも手抜きをしないということだろうか。
「そして父になる」の英訳が「Like Father, Like Son」というのが気になった。辞書によると「蛙の子は蛙」のような格言らしいが、大体否定的なニュアンスで使われているという。*
もしそうなら、この英訳は適訳だろうか。いずれにしても原題の思いが伝わらないのが残念だ。
息子を取り違えられた二家族が<息子と過ごした時間>ではなく<血>を選択するまでの苦悩や苦渋の日々が大胆にカットされて、淡々と、ある意味静かに物語が進行していく・・・。
弁護士が二家族に断言する。「100%の人が交換を選びますよ」と。観る者は、はたして自分ならどうするだろうか、と考える。もちろん、二人とも引き取るという選択肢はない。6歳という年齢も微妙な年齢だ。100%という数字の真偽はともかく、大多数の人が<血>を選ぶのであろう。
今は揺れている子どもたちの気持ちも、大人たちがしっかりしていて、ぶれなければやがて収まっていくものだという、大人たちの確信が、そこにはある。
しかし、子どもの一言でそれは崩れてしまう・・・。そして、大人が、大人の男が自分の子どもに自分の弱さをさらけ出し、許しを乞う。最後に、許し、受容するのは子どもである。
告解と許し。
子どもを持つとか、子どもを作るとか、私たちは大人側から子どもを取り扱おうとするのに慣れきっているが、実はそうではないということではないか。
子どもという存在があって私たちが<父>になれ、<母>になれ、<大人>になれるということがほんとうに理解できたら、この世界はもっと平和なものに<なれる>。
2013年9月26日木曜日
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2013年9月3日火曜日
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2013年9月1日日曜日
TV-foxが見られないときのメモ
Firefoxのアドオンに「fox-TV」というのがある。
世界中のTVのストリーミング放送が見られる便利なものだが、インストールしてみると、いくつかの放送局が見られなかった。
例によってネットで調べてみると、
Windous Media Player for Firefox
のアドオンが入っていないのとダメだというのでインストールしてみたが、それでもダメだった。(あるいは、最初から古いバージョンがインストールされていたかもしれない)
それで処置なしとしばらくほったらかしていたのだが、
自分のFirefoxのアドオンを見ていて、
VLC firefox plugin
というものが入っていることに気づいた。
そういえば、見れない放送局の場面でいつもVLCのロゴが出ている・・・。
早速VLCのプラグインを無効にしたら、なんのことはない、見られなかった放送局が見れるようになった。
例によってなんのことはない話。
誰かの役に立つとも思えないが、とりあえずメモをのこしておこう。
余談だが、他の放送局が見られるようになったらからといって頻繁に見ているわけではない。
見られないものを無理して見て終わり
(人生が終わらないように・・・)
世界中のTVのストリーミング放送が見られる便利なものだが、インストールしてみると、いくつかの放送局が見られなかった。
例によってネットで調べてみると、
Windous Media Player for Firefox
のアドオンが入っていないのとダメだというのでインストールしてみたが、それでもダメだった。(あるいは、最初から古いバージョンがインストールされていたかもしれない)
それで処置なしとしばらくほったらかしていたのだが、
自分のFirefoxのアドオンを見ていて、
VLC firefox plugin
というものが入っていることに気づいた。
そういえば、見れない放送局の場面でいつもVLCのロゴが出ている・・・。
早速VLCのプラグインを無効にしたら、なんのことはない、見られなかった放送局が見れるようになった。
例によってなんのことはない話。
誰かの役に立つとも思えないが、とりあえずメモをのこしておこう。
余談だが、他の放送局が見られるようになったらからといって頻繁に見ているわけではない。
見られないものを無理して見て終わり
(人生が終わらないように・・・)
2013年8月31日土曜日
2013年8月10日土曜日
2013年7月12日金曜日
PCの音が出なくなったら・・・
PCにトラブルが発生した時に、まずネットで類似事象を検索する。
自分の場合と同じケースが見つかれば、かなりの確率でトラブルから脱出できる。まさに地獄で仏の気分になる。
いままでに何度かそうして救われたことがある。
その作者とは一期一会の間柄だが、感謝するとともに、自分自身そういう記録を残しておこうと思う。いつの日か、それを見て救われる人がいるかもしれない。
ということで、昨夜のトラブルを書いておく。
まとめてしまえば単純なことで、方法さえわかっていれば、ほんの10分ほどで復旧できるトラブルだ。
しかし、方法を知らない者は、泥沼に落ちたような気分で長い時間PCで格闘することを余儀なくされる。昨夜は、まさにそんな夜だった。
私は、G DATAというアンチウィルスソフトを使っているが、昨夜<ふるまい検知>によって<未知の脅威>としてあるファイルがひっかかった。隔離を推奨されたので、何も考えずにそのファイルを隔離した。
その後からである、PCのすべての音が出なくなったのは。
ログで調べると<audiodg.exe>を隔離したという。さっそく、そのファイルを元に戻そうとしたのだが、その方法を調べるためにネットでG DATAのマニュアルを調べなければならなかった。隔離ファイルを元に戻すことを想定していないのだ。ここまでにかなりの時間がかかった。
ところが、隔離ファイルを元に戻しても音は出ない。
あれこれネットで調べて、PCの音がでない場合の処置をできる範囲でやってみたが効果なし。
そこで、PCの復旧にとりかかった。満を持して行なった復旧だが、原因不明のエラーが出て復旧ができない。
ここまでに2時間ぐらいかかっていただろう。熱帯夜の夜である、うんざりするには十分すぎる時間だ。
ネットで似たような症状をさがしたが、見つからない。しかし、<audiodg.exe>がないと音が出なくなるらしいということはわかった。
ふと本当にG DATAが<audiodg.exe>を元に戻しているのかという疑問が湧いてきたので、調べてみたらそれらしきものがない!灯台下暗しである。
ネットで<audiodg.exe>をDLしようとしたがうまくいかない。(変なソフトと抱き合わせのサイトがあったが、不安だったので試みなかった。たいてい、さらに泥沼にはまり込む)
G DATAが間違った場所に<audiodg.exe>を戻してるのではないかと、PC内を検索すると同名のファイルが2つあった。ひとつは英語用、ひとつは日本語用。(日本語用は、C:\windows\winsysにあった。元々そこにあったのだろう)
日本語用の<audiodg.exe>を<windows\system32>にコピーすると、なんのことはない、すぐに音が出た!
結果が出でみれば、まさになんのこともないトラブルである。
それは地図を持たずに道に迷ったようなものだ。地図さえあれば、すぐに分かる場所に行きつけなくて迷い続けていただけの話だろう。
同じように迷う人がいるとはあまり思えないが、そんな人がいればこの記事はささやかな略図になるだろう。
教訓: ちょっと待て!そのクリックがトラブルの元。
2013年7月4日木曜日
2013年7月3日水曜日
2013年7月1日月曜日
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」メモ(2)
<誰がシロを殺したのだろうかということについてのメモ>
5人が護らなければならなかった<聖なるもの>とはなんだろうか。
いや、5人ではなく4人がというべきだろう。つくるが抜けたから4人ではなく、もともとが4人なのである。アカ、アオ、クロ、そしてつくるの4人。
とすれば、護らなければいけないのは、シロその人ということになる。クロが、シロは白雪姫であり、残りのメンバーは七人の小人だと言っていたのもあながち間違いではない。ただ、そのシロは残りの4人がいるから存在しえるシロである。
おそらく、シロという人格は4人の人格の相互作用によって、作中の語を借りれば<ケミストリー>的に発生したものであり、その一人でも欠けた時に変質・変容する運命にあったのだろう。そういう意味で、つくるの<逃亡>はシロを人格的に損なうことになってしまったといえる。
つくるはなぜその幸福な聖なる共同体から逃げ出したのだろうか。もちろん、表向きの理由は駅を作りたいという彼の強い願望である。彼の夢を実現するためには、どうしても東京のある大学で学ばなければいけなかったのである。しかし、意図というのは往々にして多層的であり、別の深層では、彼はその共同体から逃げ出したかったのである。
彼の淫夢が象徴しているように、つくるはシロとクロに性的に惹かれていた。そのエロスは暴力的であり、創造的である。エロスの両面をシロとクロが体現している。シロの肉体はつくるの暴力によって破壊されるべきものであり、クロの肉体は創造の可能性として存在するものである。
つくるは、シロが指摘しているように、明らかに分裂していた。ひとつは何かを創りだそうとするつくるであり、ひとつは暴力的に破壊するつくるである。おそらく、グループの中で亢進してきたつくるは後者であり、その発現を恐れてつくるは名古屋を離れたのである。
それは、シロではなくクロを選ぶ道だったはずだ(本人は自覚していないだろうが)。創造の道をつくるは選んだのである。つくるが共同体を出て、おだやかに共同体が解体し、やがてクロとの個人的な関係が深まっていくというのが幸福なストーリーだったはずだ。
その流れを徹底的に破壊したのが、シロである。
つくるが東京に逃げたことは、シロにとって二重の脅威であった。つくるだけではなく、クロまでが自分自身から奪われるだろうという恐怖を彼女は感じた。そして、裏切り者のつくるを断ち切るだけではなく、グループに二度と接近できぬようにして、クロとの間も完全に分断したのである。
そうしなければ、自分自身が生き延びることができないということをシロは知っていたから。
東京のつくるの部屋でつくるにレイプされたというのは、つくるの中に潜んでいた暴力的な人格をシロが読み取ったものであり、同時に、クロの願望(もちろんレイプではない)を先取りして、その可能性を打ち砕いたものである。
そのレイプがどういうものであったにせよ、シロはつくるの暴力的なもの(つくるには表と裏とあるとシロは言っていた)を自分の人格の中に取り込んだのである。つくるが捨て去ろうとした人格(いわば悪霊的なもの)がシロにのり移ったと見ることができる。
その話にクロは半信半疑だったのだろうが、話の迫真性、身体的証拠、そして仲間からの傍証によって、クロはそれをひとまずは受け入れざるを得なかったのであろう。また、シロの人格的な混乱をなんとか修復させなければという使命感もあったのだろう。クロはつくるへの思いを断ち切ったのである。
つくるを切ることによって残りのメンバーの再結束を図ろうとしたシロだが、もともとがつくるも含めて4人で作り上げていたシロの人格は、すでに壊れ始めていた。あるいは、つくるがシロの人格を成立させる上で必要不可欠な役割を果たしていたのかもしれない。
シロの人格は急速に壊れだしていく。アオもアカもしだいにシロでなくなったシロから離れていく。ひとり、シロの面倒をみるのはクロだけという状況になっていく。
壊れ続けるシロの人格は、クロの存在だけで何とか形骸をとどめているようになる。
やがて、そのような関係にクロが消耗し、耐えられなくなってきたところに、フィンランドからやって来たハアタイネンとの出会いがあり、彼がその出口のない状況から彼女を救い出すのである。彼は陶芸家であり、つくると同じく何かを作り出す人ということで共通点があり、おそらくクロは彼とつくると重ねあわせながら愛したのであろう。
彼らは結婚してフィンランドへ移る。その後すぐにシロは浜松に引っ越して、クロの出産のときに何者かに絞殺される。これらの出来事は偶然ではあるまい。
ハアタイネンは、シロとクロの関係の危険性を知り、クロを遠くフィンランドの地に連れて帰ったのであろう。ふたりがこのまま出口の見えぬ関係を続けているとシロだけではなく、クロも危険だと感じ取ったのであろう。おそらく、すでにシロとクロは(文字通り)相互依存のような関係に陥っていたのだろう。
シロが比較的安定の得られる名古屋を離れ浜松に移ったのはクロへのメッセージである。クロがいなければ、シロもその肉体も長くはこの世にいないだろうということをクロに告げているのである。
ところで、シロが殺される前にアカが浜松で彼女に遭っている。
アカはそのことをつくるに話しているのだが、その印象はかつてのシロのような輝きのない、彼の言葉を借りれば<美しくない>女にすぎなくなっていたという。つまり、アカにとってのシロはすでに死んでいたのである。言いかえれば、シロは、アカの前に現れることはなく、アカの前にいるのは白根柚木というふつうの女性だったのである。
シロと呼ばれた人格は、その白根柚木という女性の中で瀕死の状態で生き続けていた。ひたすらクロが現れるのを待ちながら。
シロとクロは最後にどのような関係にあったのだろうか。性的な関係にあったのかもしれない。シロは男性に関心を持たないというクロの確信もそこから来ているのかもしれない。しかし、それはどちらでもいいことであり、要はシロはクロの存在がなければ存在しえない状態にあり、クロもそれを知っていたということである。
つまり、クロは自分が日本を離れることでシロという人格が完全に死んでしまうことを予想していたのである。だからこそ、彼女は自分の娘にシロの名を継がせたのである。シロではなく、ユズという。
2013年6月29日土曜日
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」メモ(1)
<誰がシロを殺したのだろうかということについてのメモ>
いうまでもなく、村上春樹の小説はとりわけ<多層的読解>を愉しむ作品であるから、犯人探しについても多層的な読解が可能であろう。
たとえば、多崎つくるは、その名が暗示するように<多重人格>的であり、彼が見る淫夢それ自体が現実に起こったことの変奏であったとみる見方も可能であろう。(夢の中ではシロとクロがつくるに性的な奉仕を行なっている)
シロは、彼女が主張したように実際に自由が丘の彼のマンションを訪れ、つくるに薬を飲まされて、レイプされたのである。シロをレイプした人格は、この小説の語り部のつくるにはアクセスできない交代人格であり、浜松まで出かけて行って彼女を殺したのもその人格である。シロが言うところの<裏>のつくるである。
レイプ事件で仲間からハブられたつくるの裏の人格が、証拠隠滅のためか、さまざまな手段を使って浜松に潜んでいるシロを見つけ出し、まさにつくるがイメージしたような状況で彼女の部屋に入りその<美しい首>を締めたと。
この読解では、つくるは解離性同一障害であり、主人格のつくるは交代人格のつくるの残虐な行動にまったく気づいていないということになる。パラレルワールドとは、つくるの意識の中の区画された世界ということになる。
つくる以外にも、アカ、アオ、クロのいずれも犯人に見立てて推理することは可能であろう。
さらにシロの父親が犯人であるという説もあるようで、いわば、この小説でシロに関わる人物すべてが犯人(シロではない!)の可能性があるようにも見える。
いずれにしても、殺人現場の具体的状況や関係者のアリバイなど、推理小説が必要とする情報が圧倒的に不足しているので、犯人を推理するのは所詮砂上の楼閣にすぎない。ありうるとすれば、この小説、あるいは村上春樹の小説群が要請する主題論的な推理があるだけだろう。
私は、村上春樹の小説の根本主題は<救済>にあると思っている。したがって、この小説の中で問題になるのが、<誰が何の罪から救済されなければならないのか>ということだろうと思う。その観点から<シロ殺しの犯人>に迫ってみたい。
ただ、小説を一度しか読んでいないし、しかもその本は借りて読んだもので今手元にないというおぼつかない状況である。破綻や思い違いがあるだろうということを予め断っておく。この文は、あくまでも自分自身のためのメモにすぎない。
まず「多崎」という名前であるが、これは明らかに<多指症>を暗示している。<崎>は、<裂>であり<先>である。つくるの友人灰田の話の中に<六指症>のジャズ・ピアニストの話が出てくるが、これは重要な伏線になっていると思う。
その奇妙な人物(緑川)は、自分は<死のトークン>を持っていて、それを別の人物に渡さなければ自分自身が死ぬという。彼は、おそらく切り取った六本目の指を持って旅をしているのだろうが、その六本目の指が彼の言う<死のトークン>ではないかと思える。もちろん、象徴的な意味で。つまり、それはすでに死んでいる自分自身であり、いわば<死>のトークン(徴)である。
さて、シロ、クロ、アカ、アオとあだ名される4人とつくるが作り上げていた仲間関係だが、その尋常ならざる結合力はある種の教団や結社のそれに似ている。聖なるものを外部から護るために成員が強固に結合している共同体。まさに、5人はそういった共同体を作っていたのである。もちろん、最初は単なる気の合う友だちの集まりだったのだろうが、最後にはすべてのメンバーをがんじがらめにする運命共同体になっていたのであろう。
そこから逃走したのがつくるである。彼が逃げだしたことによって、共同体が護っていたものが徐々にその封印の力をやぶって顕現してきたのであろう。つくるはその危険性をまっさきに感知して故郷を離れたのである。
しかし、その逃走は他のメンバーから<裏切り>として激しく糾弾されることになる。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」メモ(2)
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