2013年11月13日水曜日

雑感-「風が哭く」(日野啓三)

作者が慶応病院脳外科に入院したときの実録風短編。

慶応病院は、外からは見たことがあるが中に入ったことはない。

その新棟に脳外科病棟があり、作者はその十階の病室で激しい春の風の音を聞く。
それは、「嘆くようにも、怨むようにも、号泣するようにも、むせび泣くようにも、惻々と訴えるようにも、体を震わせて難詰するようにも、呪うようにも聞こえる」(p19)という。

社会から隔離され、社会性を剥奪されて、裸の肉体として<死>の前に引き出されれば、大抵の人が作中の老女のように思うだろう。「どうして自分がこんな目に」と。

怒りにせよ、哀しみにせよ、諦めにせよ、その感情は個的なものを超えて普遍的なものに限りなく近いだろう。

<死>というものを目前にしたとき、人はおそらく人類普遍の感情に触れるはずだ。死んでいった祖先たちが感じ、また人類世界が続く限り子孫たちが感じるであろう根源的感情・・・。

そのとき人ははじめて他者の生(なま)の感情に触れることができるともいえる。

作者はその啾啾たる風の音を聞きながら次のように思う。

・・・・人間は、実際に地上の岩山や洞窟や廃墟の中で風の哭く声を聞いて、自分たちの魂の奥にうごめく悲しみと絶望を意識したのであり、そのように意識したとき、「魂」とか「心」という、”超現実の現実”を初めて認識し実感したのではないだろうか。
つまり私たち人間は変奏する風のうなりから生まれたのだ。少なくとも、その自意識の、比類ない陰影は・・・・

(p25)

『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より


脳の跡がらんどうだよ春疾風