2012年10月31日水曜日

2012年10月28日日曜日

爽籟

爽籟やいろんな物体ぶらさがり

波の花

わたつうみの波の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞしぐるる 後鳥羽院


海辺の時雨の景であるが、その実は恋歌の層をもあわせ持つ。時雨である男は、波の花である女を染めようと降りしきるが、それは本来的に叶わぬ恋であり、ただ虚しく降りそそぐだけだ。このように四季と人事を照応させる詩法は和歌の基盤であった。
後鳥羽院は俊成の弟子であり、定家の相弟子であるが、職業歌人である彼ら親子との違和を感じていたと丸谷才一は指摘する。とりわけ和歌の純粋芸術化を推し進める定家に対して、後鳥羽院はあくまでも和歌を宮廷における礼儀と社交の道具としてとらえようとした。丸谷いわく、「和歌はめでたく詠み捨てるのが本来の姿である」と。
<八十島>は数多くの島という意味でもあり、地名でもあり、歌枕でもある。しかし、例の小野篁の<わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟>の歌によって八十島はあたかも隠岐であるかの意味合いを帯びる。とすれば、隠岐に流された廃帝が時雨であり恋愛であり政治であることがこの島々から遠く離れたところで行われていることに激しくしめやかな憤懣をいだいているという第三層の読みも可能となる。丸谷いわく、「ここには古代的とよぶのがふさわしい壮大な悲劇があつて、しかもその悲劇は、海の叙景と、人間の恋愛と、帝王の政治的挫折とを三重の層として持つてゐるのである」と。
新々百人一首53

2012年10月27日土曜日

2012年10月25日木曜日

2012年10月24日水曜日

2012年10月23日火曜日

2012年10月22日月曜日

2012年10月21日日曜日

みれどもあかぬ君

春がすみたなびく山の桜花みれどもあかぬ君にもあるかな 紀友則


字面だけを読むと何のこともない歌である。霞がたなびく山の桜花のように見飽きない君であることよ、と。しかし、丸谷才一が指摘しているように、『源氏物語』の「浮舟」の名場面と重ねてみると一挙に感受性の視界が広がるであろう。匂宮が半ば強引に浮舟と関係したあと二人で春の一日をすごしている場面だ。ひとりで見るとわびしく思える暮れ方の山際も時間が止まって欲しく感じるほど見ても見ても見飽きない。そして愛する人も。同じ体験をしたことがあるならば、いわずもがなであろう。それが桜のときならなおさらである。
<みれども>というのは男女の性的関係の成就を当然含意している。二人の運命は霞のような不確かな蓋然性に覆われており、それゆえに女ははかない桜の美を体現する存在たりえるといえる。
新々百人一首67

昔ながらの山桜

ささなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 平忠度


『新々百人一首』の百首の中で最大の40ページがこの一首の解説に割かれている。内容・分量からしてこの作品の肝の部分であろう。歌そのものよりも俊成がなぜ「千載和歌集」にこの歌を読人しらずとして採ったかという<謎解き>にかなりの紙面が費やされており、それがなかなか読ませる。没落する平家と隆盛する源氏という政治的大混乱の真只中に、歌謡マニアである(つまり歌に関心のない)後白河院が俊成に勅撰集の院宣を下したことの不思議を丸谷才一は、配所で無念の死を遂げた崇徳院(俊成の天分を見出した人物)の怨霊慰撫のためだと解く。そして、忠度の歌を読人しらずという扱いで勅撰集にいれたことは鎌倉の源氏に対する遠慮と牽制であり、それは後白河院からの政治的要請であろうと推測している。
『平家物語』の「忠度都落」での忠度と俊成のやりとりは、日本文学史上屈指の感動的シーンであり、薩摩守忠度の名前はこれによって不滅のものとなった。無賃乗車がサツマノカミという隠語で呼ばれたのもたいていの日本人がこの美談を常識として知っていたからこそ成立したのであるが、残念ながら今日ではその文学的常識は失われている。忠度が平家興隆の時代に古代の都の廃墟に平家衰亡の未来を重ねて見たように、われわれはこの歌に日本語本体の衰亡を読み取らなければならないのかもしれない。
新々百人一首15

2012年10月20日土曜日

黒髪のみだれ

黒髪のみだれもしらず打伏せばまづかきやりし人ぞ恋しき 和泉式部


丸谷才一いわく、「ちょうど別の文明において、均整のとれた肉体美が尊ばれるように、この時代には床に届くほど長い、瀧のやうな髪が男心をとらへた」のであり、「女は男ほしさに悶々とするあまり、髪の乱れるのもかまはず身を伏せる」のである。王朝文学にはつねに暗喩として語られる肉体とエロスがあり、<黒髪のみだれ>は女体の性的な<みだれ>であり、<打伏せば>は当然その昂ぶりによるものであり、<かきやり>は女の封印された愛欲を開示せんとする男の熱情と技巧を暗喩しているというわけだ。そして、この歌は回想であるとともに、その再現を強く念ずる呪術性に満ち満ちている。王朝男性は女の自涜の場面すら空想したのではないか。
いわく、「古人が慎みぶかい口調でどんなエロチックなことを述べてゐるかは、丁寧に読みさへすれば容易に理解できるはずである」と。
新々百人一首76

2012年10月19日金曜日

待つ夜にむかふ

うれしとも一かたにやはながめらるる待つ夜にむかふ夕ぐれの空 永福門院


万葉以来、男の訪れを待つ女心は和歌の好題目であったが、それはひとつには男を呼び寄せる呪術的な効果が期待されたのであろう。ところが、王朝文化においては、待つ女のイメージを好んで歌に詠んだのはむしろ男性であり(たとえば定家の「来ぬ人をまつほの浦の」の歌)、「新古今」時代の男性歌人というのはいわば「名女形」のような存在であると丸谷才一はいう。
この永福門院の歌は、男が久しぶりに訪ねてくる日の待つ女の心を女の立場で詠んでいる。期待や喜びはもとより、不安、恐れ、悲しみ、あるいは危惧といった微妙な多層的な感情がたくみに表現されている。王朝的男性歌に比べると近代的ですらある。丸谷いわく、「厳密に言へば、女はまだ待つてゐない。ただ『待つ夜にむか』つてゐるだけだ」と。
新々百人一首73

2012年10月17日水曜日

袖ふるをとめご

をとめごが袖ふる山の瑞垣の久しき世より思ひそめてき 柿本人麻呂


鎌倉、室町のころは人麻呂の代表作だったこの歌がなぜ明治以後顧みられなくなったのか。それは、丸谷才一によれば「リアリズムといふ近代百年の趣味の支配」によるものであり、「賀歌はリアリズム理論によって憫笑されながらかつての栄光を失ひ、そして序詞を用ゐて歌を詠むことなど誰も試みなくなつた」のだと。
ひるがえって王朝時代の歌人たちは「青々と茂る長い瑞垣の向うで袖を振つて舞ふ、布留の社の赤い袴の乙女たちに対する男の恋の久しさをもつて、この世界の長久の比喩としたのであらう」。そして、彼らは緑の(自然の)垣の中に蠱惑的に揺れる赤い(肉なる)袴と白い(聖なる)袖という、まさに色の力に眩惑されて聖なるものとの交合というイメージに呑みこまれながら神話の力の源泉に触れたのであろう。もちろん、歌垣の肉体的妄想もそこにしっかりと重なってくる。
新々百人一首65

2012年10月14日日曜日

2012年10月13日土曜日

中三時代

人生の最良の日々は中三の一学期までと言ふ高校生

2012年10月11日木曜日

2012年10月10日水曜日

平等

一頭の牛を解体するやうに毀たれて人は平等である

コンマ5秒

いらないと言つたとたんにコンマ5秒遅れの俺は不愉快となる

2012年10月8日月曜日

2012年10月6日土曜日

2012年10月3日水曜日

秋の雨

去るときは去るべく見えて秋の雨

むちやぶり

むちやぶりとむしやぶりどこかでつながつてるやうな気がするたとへば乳房