2013年9月29日日曜日

雑感-「許されざる者」

「そして父になる」のことを考えているときに、ふと「許されざる者」のことを思った。
たまたま一週間前に観た映画だ。

はっきり言って「許されざる者」は後味の悪い映画だった。
パンフも買う気にもなれなかった。なぜだろうかとしばらく考えたが、たぶんテーマの重さのせいだろうと思って、それ以上考えなかった。

たとえば、アイヌに対する差別。原作のハリウッド版にはないもので、李相日監督の思い入れがそこにあったのだろうと推察される。

町の警察署長の大石一蔵(佐藤浩市)は「生き残ったものが正しい」という、わかりやすい実践哲学を掲げて、町の治安を暴力で守っている。秩序の原初形態。

そこに人斬り十兵衛こと釜田十兵衛(渡辺謙)たちがその対抗勢力として現れる。愛や友情のために闘う(と見なされている)十兵衛だが、実のところそれも一蔵の「力の正義」と本質的には変わらない。守るべきは、かたや町の治安であり、かたや友情や家族(子どもたち)である。

そこには<悪を倒すには武器や闘争が必要である>という現実原理しかないように思う。<悪>とはお互いがお互いに勝手につけた呼称だ。

つまり、この映画の世界には救いがないのである。そこに感じられるのは徹底的な暴力の感触だけである。とりわけ一蔵は、相手を殴ったり、蹴ったり、撃ったりしながら、私たちを挑発する。お前たちの代わりに俺がこうやって暴力をふるっているんだぞと。

この映画にも子どもがいる。十兵衛の子どもたちだが、どう見ても子どもではない。それは、大人が見た子どものイメージがあるだけで、そこに子どもは存在しない。

それがこの「許されざる者」の世界である。

したがって、この世界では罪深い大人たちを許してくれる者は誰もいない。つまり、この映画の大人たちすべてが「許されざる者」である。