2013年11月14日木曜日

雑感-『薄青く震える秋の光の中で』(日野啓三)

腎臓癌、鼻孔癌、そしてクモ膜下出血と、命を脅かす病たちをからくもやり過ごしたあとの秋。
作者は自分と世界の正体に目を凝らしている。

・・・・ただ古来多くの神話と伝説が伝え残しているように、生身の人間が今までどおりの状態で、世界の認識が深まり豊かになる、ということはありえない。もし世界の真相が恐るべきものであるなら、認識者自身、多少とも怪物的にならねばならないだろう。謎が世界の核であるならば、彼自身謎めいた存在に近づかない限り、その認識も表面を撫でるだけに終始するだろう。・・・・
(p31)

あるドキュメンタリー写真家の女友達が作者の病床を訪ねてくる。身体を動かすこともかなわない作者だが、その<出会い>に運命的なものを感じる。

たまたま病院の窓の外に見つけた落葉高木(えごのき)が揺れている方角に彼女が暮らしていることを思い、作者の「体の深みの暖かみはいっそう広がってやさしく震え始める」

・・・・そう、この世界のすぐ上、すぐ奥、すぐの深みには古来、聖霊が統べる領域があって、われわれの魂が純粋に張りつめ、視線が力を秘めていれば、聖霊の力をじかに感じ取ることもできるはずなのだ。・・・・
(p47)

なにやら中沢新一の聖霊論を彷彿とさせる記述ではあるが、彼は知識ではなく、実感としてそれを感じているのだろう。

そこに女性的なものがかかわっていることがその証だと思う。


『落葉 神の小さな庭で』(日野啓三)より