最近、映画に行ってもパンフを買わなくなった。
はっきり言って読む価値のあるパンフがほとんどないからである。まるで消化試合のようなパンフばかりだったので、ある時からまったく買うのをやめてしまった。
私にとってパンフを読む愉しみは、映画を読み解く愉しみである。たぶん映像という表現とは別に文字による咀嚼がないと消化不良のような後味の悪さを感じるのだろう。ただし、それはいい映画に限られる。
逆に言うと、活字でも読みたいと思わない映画は自分にとってそれほどいい映画ではなかったということになる。
今回観た「そして父になる」はいい映画だった。迷わずパンフを買い求め、そしてじっくりと読んだ。ありがたいことに、映画の内容に見合ういいパンフだった。いい映画を作る人たちはパンフにも手抜きをしないということだろうか。
「そして父になる」の英訳が「Like Father, Like Son」というのが気になった。辞書によると「蛙の子は蛙」のような格言らしいが、大体否定的なニュアンスで使われているという。*
もしそうなら、この英訳は適訳だろうか。いずれにしても原題の思いが伝わらないのが残念だ。
息子を取り違えられた二家族が<息子と過ごした時間>ではなく<血>を選択するまでの苦悩や苦渋の日々が大胆にカットされて、淡々と、ある意味静かに物語が進行していく・・・。
弁護士が二家族に断言する。「100%の人が交換を選びますよ」と。観る者は、はたして自分ならどうするだろうか、と考える。もちろん、二人とも引き取るという選択肢はない。6歳という年齢も微妙な年齢だ。100%という数字の真偽はともかく、大多数の人が<血>を選ぶのであろう。
今は揺れている子どもたちの気持ちも、大人たちがしっかりしていて、ぶれなければやがて収まっていくものだという、大人たちの確信が、そこにはある。
しかし、子どもの一言でそれは崩れてしまう・・・。そして、大人が、大人の男が自分の子どもに自分の弱さをさらけ出し、許しを乞う。最後に、許し、受容するのは子どもである。
告解と許し。
子どもを持つとか、子どもを作るとか、私たちは大人側から子どもを取り扱おうとするのに慣れきっているが、実はそうではないということではないか。
子どもという存在があって私たちが<父>になれ、<母>になれ、<大人>になれるということがほんとうに理解できたら、この世界はもっと平和なものに<なれる>。