2013年11月19日火曜日

雑感-「神の小さな庭で」(日野啓三)

ある晴れた秋の日。
<私>はリハビリのためステッキをつきながら家の近くを歩いている。
正午の日差しの中を介護士とともに近くの公園まで歩いていく。

その公園には三人の男の子が遊んでいた。
ひとりはやっと歩けるようになった年齢で、よろけ転びながら動き回っている。
その姿を<私>はリハビリでヨチヨチと歩いている自分の姿と重ねながら見ている。

その三人の子どもたちは<私>に関心を持ちはじめ、<私>をポカンと眺めている。
気がつくとその三人が<私>のすぐ前に並んで立っていた。
そのひとりは小さな片手に握っていた何かを<私>に差し出した。
そして、不明瞭な声でしきりに何か言っている。

<私>がそれを受け取ってみると、それはドングリであった。

・・・・意味や目的はあいまいでも、何か温かいものがふたりの間に流れ伝わったことにふたりとも満足したことを感じ合ったとき、私は穏やかに深く感動し、「天国はこのような者の国である」という福音書の中の言葉を、しっかり過不足なく理解したと信じた。・・・・
(p224)

人間は「説明も強要も一切なしに、共感し納得し合うことが時に可能」であるということを、<私>は深く感じた。

この作品は、『落葉 神の小さな庭で』という短篇集の最後の小品だが、まさにこの作品群のまとめともなっている。


「大人」が「子ども」によって許されるというテーマは「そして父になる」でも感じたことだが、気になるのはその「子ども」の世界を大人たちが歪め始めているということだ。

虐待もそうだが、それ以上にわれわれの世界を<汚染>している資本主義の害毒が子どもの世界まで及び始めているのが心配だ。

この世界から「子ども」が消えてしまえば、もう我々の世界を浄化してくれる存在はなくなるのだから。