2013年11月17日日曜日

雑感-「ボルヘスと『現在』」(平野啓一郎)

ボルヘスは最後は全盲のような状態だったらしい。
そのため彼は世界を「描写」ではなく「暗示」という手法で示そうとしたという。

私も目があまりよくないので思い当たるフシがある。
きっと目がいい人たちが見ている世界と悪い人が見ている世界はかなり違っているのだろう。

たとえば、私は道を歩いている誰かを認識するのに、その顔ではなく、むしろその姿の特徴によって認知することが多い。
ある程度近づかないとその人の顔がわからないから。

ボルヘスは、視力を失ってその代わりに音に敏感になり、アングロ・サクソン語を非常によく理解できるようになったという。
ある言語は<視覚的>であり、ある言語は<聴覚的>ということがあるのだろうか。

もしそうであるならば、英語を学ぶ人は目だけではなく、むしろ耳を活用して勉強した方がいいことになる。


ボルヘスには、死ななくなった人たちを描いた「不死の人」という作品がある。

彼は「死(もしくはその暗示でさえも)人間を尊くも悲愴な存在にしている。人間はその幻影としての条件を通して行動する。人間がなしとげるすべての行為は最後の行為であるかもしれない」と述べている。

老いや病気のために死を目前に見据える人には、実感できる感覚であろう。
たいていの人は、強力な<忘却力>のおかげでそれを忘れて生きているのだが・・・。

しかし、人がひとたび<不死>というものを手に入れたら、その一回性は消えてしまう。
つまり、人が持つ<尊厳も悲愴>も消えてしまうということだ。

量的な意味では、人はすでに<不死>を手に入れたとも言える。
縄文時代の平均寿命が15歳ぐらいで、江戸時代に入ってやっと20~30歳ぐらいになったそうだ。
現在の寿命からすれば、人はあっという間に生まれあっという間に死んでいったことになる。(あくまでも<平均化された人>であり、出生後すぐに死ぬ人が多かったということだろうが)

縄文時代の人から見れば我々は不死の人のように見えたであろう。
たとえば、今500年生きる人を見たらそれは我々にとってかぎりなく不死にみえるように。

早くに死んでいく人間と長く生きて死んでいく人間の本質的な差はなんだろうか?

もちろん、長く生きることによって<経験値>は高まるだろうが、その長さに見合って死と向きあう時間も増えるはずだ。それが人の<尊厳や悲愴>を増大させるかどうかはわからない。

人間の物理的な身体には<耐用年数>があるが、未来には機械や別の臓器への<移住>によって無限に命をつなぐこともできるかもしれない。
しかし、それが<不死>といえるかどうかは解釈の分かれるところであろう。
そこには、<自分>とは何かという問題があるからだ。(今の常識では<脳>本体ということなんだろうが・・・)

各人の脳ではなく、遺伝子レベルでみれば、我々はすでに不死に近い状態にある。
しかし、自分たちを<不死>だと考える人はあまりいないだろう。
<家系>や<民族>などを<自己>と同一視する人にとってはある種の<不死>が成立していたかもしれない。


それから「八岐の人」という作品について。

小説を書いている男の話だが、その小説は通常のそれのように<あれか、これか>という行動の選択ではなく、<あれも、これも>というあらゆる可能性に枝分かれしていく物語だという。
もちろん現実的にはありえない話だが、記号的には可能であるところが面白い。

いわゆる多世界解釈だが、この小説と同様、解釈は可能だが、それはあくまでも可能性として存在する世界にすぎない。
現実、つまり現象世界はひとつ(ないし、多少のヴァリエーションの実現性の総体)だと思う。

個人の人生や人類総体の歴史がそうであるように、あらゆる数学的可能性の中である特定のパターンだけが選ばれているのはなぜかという問題がそこにはある。

われわれは、なぜ特定の物語(あるプロットとそのヴァリエーション)しか生きられないのか?

ポーは「物語は最後の文章のために、詩は最後の一行のために書かれるべきだ」と書いているが、まさに我々も最後(最期)の瞬間のために自分の物語を書き進めているだけかもしれない。


(参考)日本人は、いつ頃から"長生き"になったのか?