2012年10月17日水曜日

袖ふるをとめご

をとめごが袖ふる山の瑞垣の久しき世より思ひそめてき 柿本人麻呂


鎌倉、室町のころは人麻呂の代表作だったこの歌がなぜ明治以後顧みられなくなったのか。それは、丸谷才一によれば「リアリズムといふ近代百年の趣味の支配」によるものであり、「賀歌はリアリズム理論によって憫笑されながらかつての栄光を失ひ、そして序詞を用ゐて歌を詠むことなど誰も試みなくなつた」のだと。
ひるがえって王朝時代の歌人たちは「青々と茂る長い瑞垣の向うで袖を振つて舞ふ、布留の社の赤い袴の乙女たちに対する男の恋の久しさをもつて、この世界の長久の比喩としたのであらう」。そして、彼らは緑の(自然の)垣の中に蠱惑的に揺れる赤い(肉なる)袴と白い(聖なる)袖という、まさに色の力に眩惑されて聖なるものとの交合というイメージに呑みこまれながら神話の力の源泉に触れたのであろう。もちろん、歌垣の肉体的妄想もそこにしっかりと重なってくる。
新々百人一首65