わたつうみの波の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞしぐるる 後鳥羽院
海辺の時雨の景であるが、その実は恋歌の層をもあわせ持つ。時雨である男は、波の花である女を染めようと降りしきるが、それは本来的に叶わぬ恋であり、ただ虚しく降りそそぐだけだ。このように四季と人事を照応させる詩法は和歌の基盤であった。
後鳥羽院は俊成の弟子であり、定家の相弟子であるが、職業歌人である彼ら親子との違和を感じていたと丸谷才一は指摘する。とりわけ和歌の純粋芸術化を推し進める定家に対して、後鳥羽院はあくまでも和歌を宮廷における礼儀と社交の道具としてとらえようとした。丸谷いわく、「和歌はめでたく詠み捨てるのが本来の姿である」と。
<八十島>は数多くの島という意味でもあり、地名でもあり、歌枕でもある。しかし、例の小野篁の<わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟>の歌によって八十島はあたかも隠岐であるかの意味合いを帯びる。とすれば、隠岐に流された廃帝が時雨であり恋愛であり政治であることがこの島々から遠く離れたところで行われていることに激しくしめやかな憤懣をいだいているという第三層の読みも可能となる。丸谷いわく、「ここには古代的とよぶのがふさわしい壮大な悲劇があつて、しかもその悲劇は、海の叙景と、人間の恋愛と、帝王の政治的挫折とを三重の層として持つてゐるのである」と。
新々百人一首53